煽動が導くもの

コロナ時代のパンセ」辺見庸 著
(戦争法からパンデミックまで7年間の思考)

2014年から2021年にかけて書かれた随筆。安倍政権による日本の凋落の軌跡と重ね合わせて、そのような時代を作り出した民衆の意識の変遷を観察しながら、諦念と絶望に年老いた晩年の過ごし方を模索するような語り。

戦争、占領、天皇、貧困、アベノミクス、五輪、新型コロナ。禍々しいリストだ。

欺瞞に満ちたジャーナリズムとそれに触発される感情に左右される民衆の政治意識。

2014年にウクライナ東部で起きたマレーシア航空撃墜事件は真相がうやむやになったまま昨今の危機につながっている。危機にさらされる「事実」がマスコミを通じてこの国の人々の意識を操作している。マスコミで繰り返される「ロシアの残虐性」のどこまでが「事実」でどこからが「フェイク」なのか、にわかには判断が付きにくくなってきている。

ただ、この本にも書かれているように、マスコミを通じて繰り返し喧伝される「事実」にはなにかしらの意図があると警戒したほうが良いというのは歴史の教訓だけれども、人々はいともたやすくそれらの教訓を忘れてしまい、繰り返し繰り返し、惹起される感情によって善悪の二元論の中に解釈を定着させてしまう。

フセイン政権の大量破壊兵器を口実としたイラク侵攻は12年前のことだけれどもその誤りは断罪も免罪もされたわけでもなく、単に忘却されただけのように思える。

この国が軍国主義一色に塗りつぶされていた当時の、その時の新聞、ラジオがどのように煽動したかを直接知っているわけではないけれども、ジャーナリズムの歴史を紐解いてみれば蛮行を許す民衆の意識がどのように形成されていったかのいくらかは研究が進んでいるらしい。単に軍部が独走しただけではなく、その背景に民衆の軍国主義的な意識の高揚が購読部数獲得競争に急き立てられたマスコミジャーナリズムのセンセーショナリズムがあったという。

当時の新聞を中心としたマスコミは勇ましい軍国主義の成果を報じると購読部数が伸びるので、競争相手の新聞がそれを上回る勇猛で煽情的な記事を掲載すると、さらにそれを上回ることに拍車がかかり、勇猛さを競う紙面作りが競われる結果に経ち至ったという。

用語の言い換えも多用された。撤退を転進と、全滅を玉砕と言い換えた。戦地での餓死や病死を名誉の戦死と言い換えた。

満州事変、盧溝橋事件、八紘一宇、大東亜共栄圏、真珠湾攻撃などが、マスコミによって煽情的に報じられた。破滅へと向かっていった過去からの教訓は、マスコミの煽情への警戒なのだ。

けれども、昨今の状況はどうか。新聞に代わってマスコミの主役となったテレビのニュースのうち、この2年間の期間、トップニュースは連日、疫病の恐怖を煽る報道に終始した。PCR検査陽性を感染と言い換え、直接の死因とはかかわりなく陽性者の死亡をコロナ死と言い換え、強制圧力を自粛と言い換え、不衛生なマスクを配慮と言い換えた。

連日連夜繰り返される恐怖の煽動は人々を委縮させ、疑心暗鬼と相互不信を増長した。経済は冷え込み、失業と貧困と自殺者は増加した。暗い時代を演出したのはマスコミ、それを演じたのは恐怖の感情によって行動した民衆だった。

そして今、世間の耳目を集めているのは東欧の紛争、そして戦争。善悪の二元論の一方に加担する心証を惹起する報道が毎日毎日繰り返されている。恐怖を餌に全体主義へと誘導するマスコミ。憲法を嗤い、立法と行政の牽制をなし崩しにして、この10年の間に準備された戦争体制。

内田樹が天皇を擁護し、共産党までもが天皇制に妥協するようになった。著者辺見庸の諦念は深い。

YouTubeで「ひろゆき」が相談に応える動画を見た。どのような職業が今後有望かというテーマでいくつかの職種について寄せられた質問に応える動画。虚業詐業のブルシットジョブは就かないほうが良い、シットジョブは経済的な見返りが少ないのでやめたほうが良いというのが大方の回答の内容と解釈した。希望がない。

辺見庸の諦念は「ひろゆき」の冷笑に遠くて近い気がした。両者は現在への視線の別の入射角からの感慨なのだろう。

閉塞した時代の感覚は、自意識の過剰な早逝の青年俳人が悲嘆を詠んだ時代の感覚と共鳴している。

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