「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」(三宅果帆)
土曜日の昼過ぎに丸善で購入した。足掛け24時間で読了した。これだけ短時間で集中して読んだのは久しぶり。
積読の本がどんどん増えていく中、平積みにされていた表紙と目が合って、購入した。
日本の近代化の歴史、明治以降の時代の推移の中で、読書がどのように位置づけられていたか、そして現在どのような状況にたどり着いたかの歴史的な考察が展開される。
資本主義の発達と切り離しては考えられない読書の歴史。
どのような種類の本が時代に受け入れられたか、ベストセラーとなった本の性格が時代背景の関連で語られる。
同時代の進行形の社会へのエールとしてではなく、司馬遼太郎のフィクションが受け入れられた背景は高度成長期のノスタルジーが明治を舞台として語られたことにあると分析されている。ただし司馬遼太郎のフィクションが史実と混同されていることについたは触れられていない。企業の朝礼の訓示のネタとして広く使われたらしいことは今更ながら滑稽なことだと思える。
武士の立身と、平民の出世が、明治以降、資本主義的な階級構成が進展するにつれて立身出世として一つのものとなっていく。その修養の手段として読書が政策的に推奨され、読書人口が拡大していく過程。読書は上からの近代化政策の一環だった。
文学全集などがインテリアとして応接間に飾られ、普及したというのも見覚えのある景色だ。高校の体育の教師の自宅を訪ねた時に応接間に置かれたガラスの扉のついた立派な書棚の中に世界の哲学の全集が収められていた。背表紙が行儀よく並んで壮観だった記憶がある。
修養、教養、娯楽、そしてノイズとして資本主義の発達と、労働環境の変化に対応して読書の位置づけが変化していく様子が記述されている。
本を読むという行為自体が資本主義的価値観に包摂された思想の産物だともいえる。資本主義の産物である読書が、資本主義の内部から資本主義を食い破るためにはどうすればよいのか、そのような問題提起ととらえることができる
全身全霊で仕事に打ち込むトータルワークをやめること、自己のアイデンティティを仕事以外の場面に全身全霊で打ち込むシリアスレジャーをやめること、何か一筋に懸命になることを称賛するのをやめようという呼びかけ。
働きながら本も読む、趣味を楽しむ、家事もする、地域のコミュニティーに参加する、などノイズにまみれた人間の活動ができるようになるためには、何よりも労働時間の短縮が重要だと思える。
ノイズにまみれた生活を送ることが人間的な生を満喫することだと思える。
本を読むことの困難を通じての資本主義批判の本だと思えた。