自由意志という物語は、なぜ必要だったのか


自由意志という物語は、なぜ必要だったのか

『「偶然」はどのようにあなたを作るのか』(ブライアン・クラーク)

本書は「世界は人間のために存在しているわけではない」という、きわめて妥当な地点から出発する。
人間は目的をもって設計された存在ではなく、遺伝・環境・進化・偶然の重なりとして現れた結果にすぎない。
この非人間中心的な視点は、本書の最も誠実な部分である。

しかし読み進めるにつれ、違和感が残る。
「偶然」や「自由意志」という語が語られながら、それらが次第に輪郭を失っていくからだ。
この曖昧さは議論の不足ではない。
むしろ、問題がより深い層――「今」という存在の場にまで踏み込んでしまっている証拠である。

ここで参照すべき思想家が、九鬼周造である。

偶然とは何か ――九鬼の定義
九鬼は『偶然性の問題』において、偶然を単なる因果の欠如として扱わない。
彼にとって偶然とは、

必然の体系の中に生じる「意味の裂け目」

である。

それは自然現象の側に還元されるものではなく、
世界が人間の意味づけを拒否する瞬間として立ち現れる。

この視点から見ると、本書の量子論的揺らぎの扱いは微妙である。
本書は、量子論的不確定性を「未来が完全には決定されていない」ことの根拠として配置する。
だが九鬼的に言えば、これは偶然を自然の内部に回収しすぎている。

偶然とは、世界が揺らぐことではない。
意味が揺らぐことである。

「今」は点ではなく、場である
本書でもっとも曖昧な位置に置かれているのが「今」である。

量子論は「今」を特権化しない。
仏教においても「今」は刹那であり、固定された現在ではない。
スピノザの永遠の相の下では、過去・現在・未来は区別されない。

それでも本書では、「今」があたかも選択と可能性の交差点であるかのように扱われる。
ここに、自由意志の余地が忍び込む。

九鬼はこの点を正確に捉えている。
彼にとって「現在」とは、時間の一点ではない。

過去(必然)と未来(可能)が緊張関係のまま重なっている場

これが九鬼の「今」である。

つまり、「今=永遠」という直感は飛躍ではない。
それは、時間を実体ではなく存在の構造として捉えたときに現れる必然的な帰結である。

自由意志は実体ではない
九鬼において、自由意志は「選択能力」ではない。
因果の外に立つ力でもない。

自由とは、

必然と偶然の双方を引き受けて生きるという存在の様態

である。

これはスピノザの
「自由とは必然の認識である」
という定義と深く共鳴している。

違いは、立脚点だ。

スピノザは、永遠の側から人間を見る

九鬼は、「今」を生きる人間の内部から語る

だから九鬼は、人間に特権を与えない。
同時に、人間の経験を幻想として切り捨てもしない。

本書の到達点と限界
『「偶然」はどのようにあなたを作るのか』は、
自由意志を擁護する本ではない。
だが、自由意志を完全に解体する本でもない。

本書が実際に到達しているのは、次の地点である。

自由意志は世界の真理ではない

しかし、人間が生きるために必要だった物語である

問題は、そのことを明示的に言い切らない点にある。

九鬼的に言えば、本書は
「偶然」を説明しようとして、
偶然が立ち現れる〈場〉――「今」を曖昧なままにしている。

その結果、
量子論的揺らぎが、自由意志の余地を残すための背景装置として機能してしまう。

救いはどこにあるのか
救いがあるとすれば、それは希望ではない。
九鬼の言葉を借りれば、それは覚悟に近い。

世界は人間のために存在しない。
自由意志も、偶然も、世界の側にはない。
それでも人間は、「今」に立たされ、意味を想像してしまう。

その事実を理解したとき、
人間は世界の主人公であることをやめ、
同時に、自分の経験を否定する必要もなくなる。

本書は、
「自由意志はあるのか」という問いに答える本ではない。

むしろ、

なぜ人間は、自由意志という物語を必要としてきたのか

という問いを、無自覚のうちに開いてしまった本である。

その問いを、九鬼周造とともに引き受けるなら、
偶然も自由意志も、
必然の自然の中で作動してきた存在の様態として、ようやく落ち着く。

冷たい結論だ。
だが、世界はもともと冷たい。

そして九鬼が示したように、
その冷たさの中で生きること自体が、
すでに一つの自由なのである。

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