兵庫県知事選挙の結果が出た。元知事の斎藤が再選。終盤戦で自分自身は斎藤元知事のパワハラはでっち上げで既得権益を守りたい側の策略だという論調と、斎藤元知事自身が県政を私物化しようとする流れの中に据えられた傀儡であるとの論調と、どちらが正しいのかよくわからなくなっていた。
選挙が終わって、立花の役割が明確になってきた。斎藤は相手方を攻撃することなく、相手側陣営への攻撃は立花に任せて、自身は策略の被害者でありひたすらいわれのない攻撃に耐える殉教者のような立ち位置に立っていたというシナリオが見え隠れしてきた。
百条委員会と第三者委員会の最終結論を待たずに不信任案を全会一致で議決した県議会の動きにも不信感はある。その後の失職、再選挙、再立候補に至る経過の中で、立花を援護射撃としながら耐え忍ぶ斎藤を盛り上げるというシナリオがいつ誰の手によって書き上げられたのか、そんなことが気になる。
選挙が終わってからは、SNSでは斎藤を擁護する書き込みは選挙前に比べると鳴りを潜め、むしろ斎藤のシナリオを暴こうとする書き込み、もしくは立花との連携は公職選挙法違反ではないのかという指摘さえも出てきている。
自分自身は立花のYouTubeを観てはいないが、その影響を間接的に受けていたことになる。ちょっと情けない。
公益通報保護、自治体内部の権力構造、議会と首長の関係、不信任案提出から可決・失職に至るまでの経緯などの材料を収集して分析し判断することは個人にとってはハードルが高い。
かといって十分にわかりきるまで余計な口出しをしない方が適切だということにもならない。十分にわかるって何だろう。悩ましいところだ。
マスコミの報道とSNSの情報と、両者に対するリテラシーがますます求められる事態となっていることを痛感する。